突然だが好きなことについて考えたい。とにかく好きなことをやれている状態が幸福なのだとしたら、幸福になりたい場合、自分が好きなことは何かを知って、あとはそれをやれば良いだけ。ということになる。
なるほどシンプルだ。では私の好きなことは何であろうか。私の好きなことは散歩である。散歩をしている間、私は幸福である。
散歩をしていると気持ちが上がってくる感じがある。だんだんと自分の人生を取り戻している感覚になってきて楽しくなってくる。別の言い方をすると、自分の体と心が一致してくるというか。これこれ。これだよこれ。という気持ちになってくる。楽しい。
30分ほど歩くと少し汗をかく。単純にそれがいいのかもしれない。とにかく、一駅向こうまで特に道を決めずにひたすらテクテク歩く。
ふとこんなことを考えた。今の世の中はとにかく人を楽しませようとしてくる。どの映画も、どの音楽も、どのアプリも、どのWebサイトも私を楽しませようとしてくる。私を楽しませて、その場所にいさせようとする。
ところが私はただ一駅向こうまで歩いて、少し汗を書くことが楽しい。楽しくて、楽しくて、ニヤついてしまう。こんなに近くに素晴らしいものがあるのだから、誰かにそれを伝えようとするのだけれど、その楽しさを誰かに伝えるのは難しいと思う。
飲み会などで「休みの日は何をしていますか」といった質問があった場合において、基本的には「週末私は〇〇をして楽しみました」といった回答が期待される。〇〇に当てはまるのは、映画を見ましたとか、音楽のコンサートに行きましたとか、フットサルをしました。そういったものである。そういった”何か”のほうが話が弾みやすいからである。
散歩をして楽しみました。というのは伝えるのが難しい。それはなぜかと考えた。散歩の場合”楽しさ”が、私の中にあるからではないだろうか。私の中にある楽しさを説明することは難しい。けど大切だ。
説明しにくいものは、形に残りにくい。形に残りにくいから、存在が確かめにくい。存在が確かめにくいから確かにあったはずなのに、忘れてしまう。
自分が自分の楽しみを捉えておくことは大事なことだと思う。自分が自分の楽しみを逃したら、だれもそれを説明できる人はいなくなるからだ。
そんなことを思いました。
ではまた。
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